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悟り
■■■ 祈ららの祈りで導かれる場所。紫野ひかりのお話 ■■■
★悟り・1

5月の満月の日は、ウエサク祭です。この日は、釈迦が生まれた日、悟った日、亡くなった日がすべて、太陽暦では5月の満月の日であることから、ヒマラヤやアジア各地で祝われてきました。

2年前の悟りの時には、5月の満月の日のエネルギーを受けていたのだということに気づきました。満月ツーリングで集まった仲間と、10日後にツーリングに出かけて、事故を起こしたのでした。

この2年間、私はぼんやりと過ごしていました。悟りの後どうなるのか、なるがままにまかせながら、自分で自分を観察していました。

日常は何が起こっても平和で、あまり大したトラブルはないように感じます。マイナス志向の人には平和に感じないかもしれませんが、私には十分平和です。私の遠くでだけ、いろいろな大きなトラブルが起こっている感じがします。嵐の中にいても、自分だけ春うららということがほとんどです。

とても当たり前で自然なので、何か特別な感じはありません。もう以前の自分とは違うのだということも忘れてしまいそうになります。けれど、空について、悟りについて、調べてみると、やはり自分は空や悟りの中にいるとしか考えられません。

平安です。以前に持っていた、自分にはやるべきことがある使命感のようなものとか、まだ先がある感じ、目的が達せられていない感じ、具体的には何だかわからない目的に向かって引き寄せられ、進まずにいられないような感じなどが、なくなりました。

思い出してみれば、悟りまでの人生は、何もわかっていなくても悟りに向かって一直線に進んでいました。それしか頭にありませんでした。自分が悟りを目的にしているのだとも気づかず、わき目もふらずに歩いていました。物心ついたころから、釈迦とキリストが目標でした。

悟った人は、その記憶を来世に持ち越し、悟らなければ、来世はすべての記憶を失って最初からやりなおしだとも言われているそうなので、私は一度以上悟りの経験があったために、ストレートに悟りへ向かったのかもしれません。

私は好奇心旺盛な性格なので、興味関心のあるものがたくさんありましたが、悟りのために必要なものだけを選択し、他は捨ててきました。好きなものを捨てるのは苦痛でしたが、たくさんの犠牲を払ってでも、悟りへ到達したかったのだと思います。

そこまでして求めたもの、そこに到達してみて、今得たのは、ゴールしているという感覚だけとも言えます。引き寄せられるものが、なくなりました。引き寄せていたものの中に自分が入ったからでしょう。

悟り以前の自分は、本来の自分ではなかったと思います。今の自分が本当の自分なので、本当の自分にもどりたいという気持ちが、悟りへ駆り立てたんでしょう。

けれどもう達成できたので、以前捨てなくてはならなかったものを再び拾い上げて、今度こそ思い通りに愛することができるようになりました。このことは幸せです。のんびりと、好きなことを好きなようにできます。

ありのままになる、本来の自分になるなどとよく言いますが、それは悟りによってしか達成されないことですから、易しい言葉で悟りへ導いているんですよ。悟りというと、皆、尻込みしますからね。

しかしなぜ、このような悟りへのすごろくのような人生が設定されているのか、不思議に思います。考えてみても、悟りがそれほど素晴らしいものとは思えないからです。というのも、悟りは本当に当たり前でありのままの日常であり、これが自分の本来の姿だというだけのことです。悟りが素晴らしいのではなく、悟り以前の人生が存在することが、普通に考えれば異常で、過酷で、恐ろしいことだと思います。

この悟りまでの人生の意味は何なんだろう?なぜこんな苦しみがあるんだろう、何のために?いろいろな意見はあるかもしれませんが、今はまだ、自分の感覚では、はっきりとつかめません。私は、悟り以前の人生が嫌いだったんでしょう。だから、さっさと本来の平和な自分に戻りたかったんだと思います。

以前の自分に比べ、悟りの後で何が違うかというと、他を犠牲にしてでも達成しなくてはいけない目標がなくなったということです。これが一番です。山の頂上にいて、もう上がありません。しばらくするとまた新しい山が見えてくるかなと思っていましたが、今のところは、まだ新しい山は見えません。

他は細かいことで、自分の中に何でもがあるという感覚になりました。偏りが少なく、自分はこのような人間だという限定した見方をしなくなりました。今の自分は仮の自分で、どのようにでもなれる、可能性に満ちた存在だと感じています。今の生活や性格は、かなりの変更が可能と思っています。その必要が感じられれば変えますが、人は個性的で構わないので、特に必要がなければそのままにするでしょう。

さらに執着がなくなりました。適当なところで満足してしまい、それ以上を望む気持ちがあまりわいてきません。

自分の人生は、自分の思い通りだと感じます。私の今の生活は、すべて私が思ったものが思った通りに実現したものです。私の望みは、心から求めたものはすべて実現しました。それが誰にとっても当たり前で、今誰の目の前にあるものも、その人が心から信じた通りのものです。

現実世界は鏡であり、幻と感じるようになりました。悟りとは、この現実世界が鏡の中の世界であると感じることだと思います。この肉体も物質も、仮の世界のもので、真実の世界は内面にあります。このことを自覚しながらも、肉体を持った身では鏡の中の現実を生きるしかなく、しかし心だけは真実の世界に生きるようになったのが、生きて悟った状態だと思います。

真実は内面にあり、現実世界はその反映でしかないので、思い通りに実現するしかありえないんです。この世の現実は荒々しく、心の世界は緻密で、現実よりも先に原因として存在しています。

悟っている感覚は、生まれてからずっと鏡をのぞいていたのを、生まれて初めて自分の後ろを振り向いてみた感じとも言えるでしょうか。何も特別なことも華やかなこともなく、自然で当たり前で、忘れてしまいそうで、それでいて以前とは決定的に違い、もう以前には戻りたくはありません。

悟ったからといって、完璧な人間になったわけではありません。相変わらず苦手なものや欠点はたくさんあります。立派でも華々しくもありません。

それでも誰もが、悟りへ向かっていることがわかります。そこが、本当の自分の生きるべき場所だからでしょう。悟り以前の自分は、あるがままの自分ではなく、かなり多くの制限の中で生きていました。



会報「ドラゴンアイズ」81号(2006年6月号)から抜粋
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★悟り・2

悟りを得て2年後に振り向いた時、そこに見えたものに驚いて、立ちすくみました。悟り以前の世界は、生まれた時からずっとプールの底で潜水をしていたようなものです。それが現実だと思い、それが人間というものだと思っていました。

けれど今、生まれてはじめてプールから上がり、自分は空気を吸って生きていく方が楽なのだ、そういう風にできているんだと気づきました。本当に楽で、体も軽くて、潜水プールの底に戻りたくはありません。

けれど、そのプールにはまだ、大勢の人がいます。その人々を眺めると、ただ呆然とするしかありません。振り返るまでは、楽しくて幸せで、大笑いしていました。でも・・・。菩薩が、先へ行かないで後から来る人たちを援助する道を選ぶというのは、この気持ちに対する決断なんですね。

このようになってみてはじめて、釈迦が最初に「この世は苦である」という洞察から出発したことが、どれほど天才的な発想だったかということが、わかりました。生まれて一度も水の外を経験したことがないのに、自分が「苦」の中にいることを理解する能力に、感嘆します。

この世は、何という苦痛に満ちた世界でしょうか。肉体を自分だと思い込む罠。肉体は、この世を見るための双眼鏡のようなものです。自分はこの世の人間ではないので、この世をのぞくために道具が必要なのです。その道具が肉体であり、この世の人生です。

「私」という意識にとらわれる罠。今の私は、自分の中のひとつのバージョンでしかありません。「私」は自分の中心ではなく、本当の自分のたくさんのバージョンのひとつです。「私」は死ぬと消えて、本当の自分に戻るでしょう。本当の自分とは、ハイアーセルフに近いものか、ハイアーセルフのことです。

けれど、この肉体を使っていることや、この「私」を使っていることに溺れて、それが自分だと思い込むと、この世への執着となって、転生するでしょう。「私」と感じられるものが「自分」だと思っている限り、それは「私」への執着であり、この世への執着でもありますから、一種のカルマでもあり、転生から逃れられません。

「私」が自分の全部ではないということが心底実感できるのは、悟りの後でしかありえませんから、悟りなしには転生は終わりません。

見えているものが現実だと信じてしまう罠。この肉体を使ってしかこの世を見ることができないので、肉体の目で物事を判断しようとします。肉体にはこの世を見る能力しかありません。この世を見るための道具だから、それでいいんです。

見えているものは楽しいアトラクションで、自分の本当の世界は別のところにあることがわかっているなら、それで十分ですね。でも、そのことがわからなくなってしまいました。

肉体が持っている、この世を見るという性能が、あまりにも上手くできていたので、現実と非現実が逆に見えてしまい、それは信念となって強化されるばかりで、振り返ることができなくなってしまっています。

このようにして、人は水の中で生きることに執着し、水の中で幸せを追い求めますが、そこで本当の幸せをつかむことは不可能です。水の中で生きているように見えているのは仮の自分で、本当の自分は水の外にいるんですから。

皆が好き好んで苦しみを抱きしめ、苦しみを取り合い、もっと苦しみを得ようとして競争し、苦しみを求めて憎み合い殺し合いまでしている姿は、あまりにも哀れです。

誰がこんな仕組みを作ったのか?誰が?こんなひどい仕組みを、誰が考えたのか?

私はなぜ、こんなおぞましい仕組みの中に、また生まれることにしたのか?

私は罪人なんじゃないか?刑務所として、この世に生まれたんじゃないか?もしかしたら、この仕組みを作ったのは自分?この世を作った罰として?

誰でも幸せを求めている、それだけは確かなことですね。一時的でない、永遠の幸せは、悟ることでしか手に入れられません。


この世で起こっている人の狂気は本当に悲しいことですが、かといってこの世が悪いものというわけではありません。肉体や「私」という意識を道具として、本来の使い方を忘れずにいられるならば、大変に美しい世界なんです。

霊から物質への変換というは、この上ない美しさで、時間を忘れて聴き入り、見入ってしまうような、うっとりするほどの自然のショーです。目の前のファックスでさえ、甘美でとろけそうな美を強烈に放ちます。雨の音のひとつひとつは、世界の全部を感動に震えさせる、楽器に聴こえます。

植物たちはまるで微笑んでいるようで、あらゆる物質や動物たちは皆、悟りの中にいますが、自分たちが悟っていることを知りません。(正確には、これを悟りとは言いません)人間は、自分が悟っていることを知るために、こんな危険なチャレンジをしているのかもしれません。

この霊と物質のハーモニーを鑑賞できることは、生きながら悟った人間だけに許された特別な経験なんでしょう。

世界は、あまりにも美しく愛しいです。世界を美しいと思う程、愛しいと思う程、それは自分に対して賞賛と愛を注ぐことになるということが理解でき、歓喜の循環の中に入っていきます。



会報「ドラゴンアイズ」82号(2006年7月号)から抜粋

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★悟り・3

悟りの中にいて、悟りを考察するということは、難しいことです。よく、何かに夢中になって無心になっている時が、悟りの状態に似ていると言いますが、その通りなので、悟りの中にどっぷり浸かっていると、悟りについて考えられません。

悟りについて、考えたり書いたりするという行為は、一時、悟りの外に出てすることになります。そのため、悟りの状態にいながらではなく、悟りの状態を思い出しながら考えています。この状態でなければ、自分がどんな状態なのかも、悟っているのかどうかも意識することができません。

ずっと悟りの中に居続けたままなら、様々な気づきも起こりませんし、意識的な進歩成長もありません。今まで気づかなかったことに気づくことや、理解できなかったことを理解すること、視野が広がることなどは、とても楽しいことですから、少しは悟りの外へ出て、悟りを意識化するのは、刺激的です。

自分という作品が、今どんな風に出来上がっているのか、外からながめてみるのも楽しみのひとつです。それが、自分が悟っていることを知るという楽しみです。

けれど、悟りについて考えている時は、悟りの中で考えているのではないので、実際に悟りの中にいる時とは、微妙に考え方が食い違っています。

悟りの中にいる時は、自分という意識が薄れ、ハイアーセルフの手足として、かなり自動的に生きています。私の場合、今までの人生で、必要なことは出来上がっていますから、ただそれを遂行するのがハイアーセルフの意志のようです。

感じとしては、日々のくり返しに疑問を持たず、必要なことを必要なようにこなし、求められるままに行動し、それで満足して幸せです。何のために生きているのかとか、自分は何になるのかとか、人生とは何かとか、そんな若い疑問はありません。

かといって、何も変化がないかというとそうではなく、様々に起こってくる変化も、抵抗せずに受け入れます。自分に限界の感覚があまりなく、新しいことに抵抗がありません。肉体は現実に衰えていくでしょうから、この部分が、これからどうなっていくのか、自分でも興味があります。

世界は完璧に自分のために存在しており、自分は完璧に世界のために奉仕しており、どこにも不満はありません。とても幸せなので、何か刺激がないと、そのまま埋もれて、悟りとは何だったか、忘れてしまいそうです。

最近は、何か人や動物や生き物や物、何に対しても意識を集中して相手を理解しようとすると、相手に対して愛しさがわき起こってきます。対象を理解しようとする時、脳波が通常でないモードに入るようで、そこへ入ると、何もかもがやたらと愛しいんです。

この感覚は、何かの時に強く起こってくるもので、普段はぼんやりと過ごしています。ぼんやりしていれば、周囲のものがそんなにクリアには見えてきません。たぶん、周りの何もかもが愛しいというのが、自分の本質的なあり方なんだろうと思いますが、いつも研ぎ澄ませて生きるのは疲れるし、そこから思考へ入っていくと、悟りの外へ出ることになってバランスを崩しやすく、それも疲れるので、自分を守るために、ぼんやりと過ごします。

自分が何に対しても非常に強い愛を持っていることがわかっていれば、それで十分で、満足です。日常生活の中で常に愛の嵐を具現している必要はなく、いざという時にだけ表現すればいいんですから。その愛の性質はとても強いので、適度に保つ方が良いと感じ、本能的に抑えています。

私の仕事は、この愛をかなり表現しても良い内容なので、仕事上ではあまり抑える必要がなく、ストレス解消になっています。仕事中の自分は、最も自然な状態に近いと思います。

ダライ・ラマが、悟りの後には奉仕の道を歩まなくてはいけないと話していましたが、考えてみたら、奉仕の道は、祈ららの祈りを始めた時からずっと歩き続けているのでした。私にとって祈ららの祈りは、奉仕できる喜びでした。仏教の人たちは、精神的な進歩成長を後にして、先に悟ろうとするので、奉仕の人生が後になるんでしょうか。

便宜上、仏教の「悟り」という言葉を使っていますが、これは神道系の言葉を使うと、「神人合一」ということだと思います。神道では、そのために様々な行や禊をくり返しているように思います。

私は、祈ららの祈りを進めて、悟りに至りました。ユングの成長段階については、第4段階(意味のアニムス)に入ってからは、第4段階が10年程度と長くかかったので興味を失い、ほぼ忘れていました。忘れていたので、時間がかかってしまったのかもしれません。

祈ららの祈りでは、カルマ浄化をしますが、このカルマの中に、「悟っていないこと」が入っていたのだなと思います。カルマとは、合戦や人間関係や、日常的な様々なマイナス波動を持つことだけではなく、ありのままの自分でないこと、即ち悟っていないことも、含まれているのだと思います。

カルマを浄化しようとして祈ると、祈るたびに「悟ります、悟ります」と宣言しているのと同じです。だから、祈ららの霊の祈りを始めると、悟りに向かう進歩成長が促進され、最終的に悟りへ至るのだと思います。




会報「ドラゴンアイズ」83号(2006年8月号)から抜粋
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★悟り・4

このごろの自分は、かなり子供の感覚に戻っている部分があるように思います。とにかく、いろいろなことに興味を感じます。今まで知らなかった世界を知りたい、やってみたい、自分の中の未知の部分を見たいと思います。自分という人間が、はてしなく広大だと感じます。子供のころでも、これほどいろいろなことに興味はなかったように思います。

それに、子供のころは、もっと自分が無力だと感じていました。たとえ興味のあることがあったとしても、そんなことができるかどうかわからないとか、それは別世界のことだとか、自分には無理だとか、続けられるかどうかわからないとか、何に対しても不安がつきまといました。

今では、何でもできると思っていますし、自分が手に入れようと思えば何でも手に入るし、続けたくなければ続ける必要はないし、何も不安に思うことはないと思っています。

子供の自分は、何て世界を怖がっていたことでしょうか。先が見えず、暗く、どうなるかわからず、親が圧倒的で自分の意志で生きることができず、何かにならなくてはいけないという、使命感のようなあせりのような感覚もありました。

でも今は、最低限自分のなすべきことはやってしまったと思います。後は、楽しむだけ。やっと本物の、天真爛漫な子供になった気がします。赤ん坊でもあり、老人でもある神のイメージとは、こういう感覚から来ているんだろうなと思います。これから死ぬまで、どうやって遊ぼうか、それが関心の的です。

私はいまだに、自分をひとつの芸術作品と思っていて、この自分という人格をあれこれと創作しては楽しもうとしています。どこまで使えるか、楽しめるか、徹底的に試してみたい気持ちになっています。自分の感じる感覚や感情は、まるで楽器を鳴らしたように自分の中に響きます。楽しんでいる自分を楽しんでいる自分が、どこかにいます。

自分は本来霊的であり、それがそのまま現実化したものと感じています。自分の思った通りに自分が変わり、自分の思った通りに、周囲の環境まで現実化することができているのを、楽しんでいます。

楽しむこと、遊ぶことは、その物事が確実に自分のものになっているという証拠です。何かを越えられたかどうかは、楽しいかどうかで、簡単にわかります。

でもそれを、子供時代から大人になるまで、ずーっとやっている人たちもいるんですね〜。アウトドア派やスポーツ系の人たちがそうですね。芸術家もそうです。宗教家やいろんな専門分野の人たちにも、多いと思います。そういう人たちとは、実のところ、かなり違います。

ずっと子供のままの人たちと、一度一周して子供に帰ってきた自分とは、全く感覚の違うところがあり、完全に同調はできません。でもそこは、知らんふりして、吸収できるところだけ吸収し、楽しめるところだけ楽しんでいます。

自分にぴったりの環境がお膳立てされるのを待っていたら、何100年も何1000年もかかるかもしれず、とても待ちきれませんから、欲しいものは自分から取りに出て行きます。

いつもは、自分が周りの人と少し違うことを、忘れたがっています。バイクでも、乗馬でも、セミナーでも、神社でも。何かに一生懸命になっていると、その違いを忘れられるので、快適です。その一生懸命になっていることが、祈ららのみなさんからのアフターフォローのご相談だと、さらに快適です。私の日常生活の中で、本来の自分に一番近い場面ですから。アフターフォローのお電話で話している時の私は、きっと楽しそうだろうと思います。

違和感の中にいても、何かのきっかけで集中しはじめると、その物や人が本来物質ではなく、霊から物質へ変換されていることが感じられ、その変換の美しさに心が魅せられます。霊から物質への変換は、非常に美しく感動的なんです。

そうしていつの間にか、違和感を忘れてしまうこともありますし、そこまで集中することなく、ただその場をこなしただけということもあります。

こうして、何か多重の感覚を、行ったりきたりしている感じがします。

この数ヶ月間、悟りを振り返り、意識化してみたら、変化が感じられました。意識化することで、意識の持つ力でしょうか、悟りが強化されたような感じがします。意識化という道具も、適度に使うとスリリングで楽しめます。

私はまだ悟り初心者だと思うので、先輩方がたくさんいるはずですから、先を行っている人の本などを、読んでみようかと思いますが、今までの私のパターンからすると、実行するのはいつになるかはわかりません。元々、特に「悟り」に興味があるわけではなく、楽しんでいたらここへ来ていたというだけなので。

それよりも今は、体験したことのない新しい物事への興味がどんどん起こり、実行してみたくて仕方がありません。知識よりも経験の方が楽しいですし、私にとって知識は、経験を補い豊かにするためのものでしかないのです。

世界との一体感のためなのか、何にでもすぐ手が届く気がしています。世界が自分のために回っている感じがするし、自分も世界のために存在している感じがします。世界は、自分の体のようです。私は赤ん坊のように、自分の体をながめ、不思議に感じ、いろいろと動かして試し、楽しんでいます。

当面は飽きるまで、こちらを楽しむ方が優先だろうと思います。経験の後、必要な知識がやってきたら、また何か新しい気づきがあって、おもしろいことを考えたり書いたりするかもしれません。




会報「ドラゴンアイズ」84号(2006年9月号)から抜粋
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私が人生半ばで悟りの経験を得たのは、積極的なカルマ浄化と霊的な奉仕活動を進める祈りによって、進歩成長への障害が取り除かれていたからではないかと思っています。



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